キモ・オタクの日々

ジャニオタの独り言

「推し、燃ゆ」感想「推す」ことの功罪

 こんにちは。オタクです。

    ブログをしっかり書き上げてアップロードするなんて何年振りなんでしょうか。記事を確認したら最後に投稿したのが、7 MEN 侍、今野大輝くんの沼落ちブログでした。2年前。それから今現在に至るまで、色々な現場に行きました。サマステ、Honey侍魂、ジャニーズ伝説、Fantasia、明るい夜に出かけて、サマパラ...どれもとても楽しくて、かけがえのない思い出ではあるのですが、そんなきらきらした思い出の備忘録をすっ飛ばしてでも、このブログを書きたい衝動に駆られ、今パソコンに向かって文字を打っています。

皆さん、「推し、燃ゆ」ってご存じでしょうか。

 2020年に出版され、あの芥川賞を受賞した作品です。昨今の「推し活」ブームに乗っかったような作品が芥川賞を獲れてしまうのか。本屋であの桃色の表紙を見るたび、そう思っていました。でも「推し」がいるものとしては気になるタイトル。文庫本になったら読んでみようかな、と思っていました。そして今年文庫化したため、電子書籍で購入。

 しかし、勇気が出ずにKindleという電子の棚にしまいこんでしまっていました。なんせ、推しが燃える話。私の自担もいろいろとありました、ありすぎるので内容に関しては伏せますが。(早口)ともかく推しの炎上なんて、オタクにとって死活問題。まあでもサマパラも終わって夏も終わるし(?)読むか!とkindleを開きました。

まあ、地獄。

↓以下ネタバレ注意

 主人公のあかりは発達障害を持つ女子高生。いつも生きづらさを感じていたが、男女混合アイドルグループ「まざま座」の上野真幸を推し始めたことで人生が変わり、SNSで居場所をつくることができた。しかし、突然推しがファンを殴ったことで、炎上し――。

 生きづらさを感じる人間が推しに出会って変化する、と聞くとポジティブなように感じますが、そんなに優しいものではなく、あかりは上野真幸というアイドルを”解釈”することに心血を注ぎ、傍から見ると異常な状態に陥っていました。私も他人からみると恐らくこういう感じなんだろうな、と思うと本当にオタク、辞めたい。の気持ちになります。

 あかりは推しの発言を全てファイリングしたり、推しの人気投票のためにCDを十枚以上購入したり、コンサートに足しげく通ったり、私が今書いているようなブログを書いたり、アルバイト代を全て推しに貢いでいます。私自身も、私の周りも同じようなものなので、まるで自分のことを書かれているかのようでした。家庭環境も学校生活もなにもかもうまくいかない中での唯一の支えが推し。私も高校時代適応障害を患い、学校に行くことができなくなった時期がありました。そのせいで家庭環境も崩壊寸前になり、私の人生どうなっちゃうんだろうなあ、と漠然とした不安を抱えていたことがありましたが、そんなときに私を支えてくれたのは、親でも友達でもなく、嵐でした。嵐は、というか嵐に限らず推しって画面上、ステージ上といったようなある種のへだたりがあって、ある程度距離感が保たれた存在だと思います。その距離感があの時の私にはちょうど良かった。嵐はこちらに干渉することなく、ただ寄り添ってくれる存在で、私にとって嵐は薬でした。だから、何事もうまくいかず、生きづらさを抱えるあかりの気持ちが痛いほどわかる。特に印象に残った部分を以下ピックアップします。

愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから、顔、踊り、口調、性格、身のこなし、推しにまつわる諸々が好きになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、着ている袈裟の糸のほつれまでいとおしくなってくる。*1

め~~~~っちゃわかる!!!!

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの逆だっていう表現めちゃくちゃ好きだなと思いました。一度好きになってしまえば、その人のなんだっていとおしい。大野さんの爪だって、上田くんの靴の汚れだって、大輝くんの青髭だって、なんだっていとおしい。食べろと言われれば食べます。(そんなこと言わないだろうよ。)

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。*2

 あかりは普通の生活がままらないから、推しを推す自分に価値を見出しているのかな、と思いました。推しを解釈して、それをブログにあげるのも一種の承認欲求で。推しを推すことで自分に価値をつけている。推しを推さない自分は背骨がない肉体と同様で、自立することができない。

 こうやって解釈したんですが、これ、ほぼ今の自分だって気づきました。というか、前々からジャニーズに生活を委ね過ぎだとは気づいてはいましたが、客観視するとより鮮明にむごたらしくその事実をつきつけられたように感じます。あかりのように推しを推すという行為自体で自分に価値を付けている、というよりかは私はジャニーズに依存し、ジャニーズに生きる意味を押し付けている、という方が近いのかな。大輝くんにファンサをもらえたり、上田くんと目が合ったり、そういった瞬間のために生きている。

 あかりと私はこの点において決定的に違うと思いました。だけど結局推すって自己満足。その点においてはどんなオタクも変わらないと思います。「○○くんのために!」ってよく言う人居ますが(というか私も言う)それも自己満足だから。

 最終的にあかりの推し、上野真幸は芸能界を引退します。あかりは背骨を失うのです。

 私の自担の大野智も表舞台を退いています。便宜上「活動休止」ではありますが、無期限の活動休止であり、戻る見込みが一切立っていません。あかりの推しのような問題行動をしたわけでもない、ただ「ふつうの生活がしたい」と青春をすべてエンターテインメントに捧げた男性の切実な願い。つらくてつらくて。何が一番つらかったかって、自分たちオタクの存在が大野さんを苦しめていたのではないか、ということ。

 その点あかりは自分に焦点を置かず、芸能界引退は推しの問題であるとしてどこか宙ぶらりんな印象を受けました。自分が大野智をエゴ抜きで好きだったとは断言できませんが、あかりにこの視点が無かったことに少し驚きました。やはりあかりは前述したように、自分に価値をつけるために推しを推していたのだと改めて感じました。

 最後に好きな一文を引用して、締めたいと思います。推しがいる人はぜひとも自分の目で読んでみることをおすすめします。

肉を削り骨になる、推しを推すことはあたしの業であるはずだった。一生涯かけて推したかった。それでもあたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことはできないのだ。*3

 

*1:宇佐見りん『推し、燃ゆ』電子版、河出文庫、2023年、20頁-21頁。

*2:同上、26頁。

*3:同上、80頁。